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京都地方裁判所 昭和57年(ワ)637号 判決 1985年10月09日

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は原告に対し金一九〇〇万円及びこれに対する昭和五七年四月二〇日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言。

二  請求の趣旨に対する答弁

主文と同旨。

第二当事者の主張

一  請求原因

1  原告は、昭和三六年一二月、被告(ただし、当時はその前身である新三菱重工業株式会社)に雇用され、昭和五七年二月二八日付をもって解雇されるまで、同社京都製作所に勤務していたものであり、かつ、全日本労働総同盟三菱自動車工業労働組合(以下「組合」という。)の組合員であった。

2  被告と組合との間の労働協約(以下「本件協約」という。)第五二条第一項第一号には「会社は、傷病補償年金を受ける者が退職し、又は解雇されたときには、当該組合員に退職特別補償金を支払う。」旨定められており、昭和五六年一月一日付労働協約によれば、退職特別補償金(以下「本件補償金」という。)は金一九〇〇万円となっている。

3  原告は、本件協約第五二条第一項第一号にいう傷病補償年金(本件協約第五一条に規定されているもの)を受給していた。すなわち、

(一) 原告は、昭和四七年一一月、じん肺結核で入院し、翌四八年三月退院し、以後昭和五〇年一〇月まで療養のため休業し、同年一一月職場に復帰したが、昭和五一年一二月「じん肺管理区分四」の決定を受けたため、昭和五二年一月中旬から療養のため休業し、同年五月から傷病補償年金を受給している。

(二) ところで、被告は、原告の昭和四七年一一月の入院休業の際に、原告に賃金の二〇%を休業補償として支給することを決定し、以来この二〇%を原告に支給してきた。右決定に際し、原告は被告から「君は三菱の従業員だから本来四〇%を支給すべきだが、じん肺結核の原因が前職の佐藤工業株式会社(以下「佐藤工業」という。)にもあるので、三菱としては半分の二〇%を支給することにした。」との説明を受けている(なお、昭和四七年当時、労働者災害補償保険法(以下「労災保険法」という。)による休業補償給付は六〇%だった。)。そして、昭和四九年一一月一日から労働者災害補償保険特別支給金支給規則(昭和四九年一二月二八日制定、労働省令第三〇号)による特別支給金制度が実施され、労災の休業補償給付が八〇%となったのちも、原告に対する前記二〇%の支給はそのまま続けられた。したがって、結局、被告における原告の賃金を基準にすれば、原告は、本件協約第四七条の休業補償給付については特別支給金制度実施前は八〇%、実施後は一〇〇%支給され、本件協約第五一条第二項の傷病補償年金については当初から一〇〇%支給されていた。その支給方法は、被告が賃金の全額一〇〇%を原告に休業補償として支給し、原告が労災保険法からの給付を受ける都度、被告からの支給金の八〇%相当額を被告に返還するという方法で行われていた。

したがって、原告は、本件協約第五一条二項に定める傷病補償年金を、被告から同条の上積み部分(二〇%)の支給を受けることで、一〇〇%受給していたのであるから、本件補償金の受給権を有するものである。

4  仮に、原告が本件協約第五一条に定める傷病補償年金を受給していなかったとしても、本件協約第五二条第一項第一号の「傷病補償年金を受ける者」とは、現実にこれを受給した者のみならず、本件協約第五一条第一項に該当し、その受給資格を有していた者をも含むと解すべきである。

本件補償金を支給する趣旨は、不幸にして被告の業務に起因する傷病のために退職を余儀なくされた組合員に対し、被告の責任において、その退職後の生活を多少なりとも補償しようとするものであるから、その本旨は、被告において本件協約第五一条の傷病補償年金を受給しうる程度の業務上の疾病にかかった者がそのために解雇されたときは、その生活補償のために本件補償金を支払うというものである。すなわち、本件協約第五一条に定める傷病補償年金を現に受給したことは、当該疾病が右程度にあったことの徴表、若しくは例示にすぎず、本件補償金受給の要件としては、本件協約第五一条に定める傷病補償年金を受給し得るに足る業務上の疾病にかかっていることであり、かつ、それで十分であると解すべきである。そして、原告のじん肺結核(以下「本件疾病」ともいう。)が、被告における業務に起因するものであることは後記のとおりであるから、原告は、本件協約第五一条に定める傷病補償年金の受給資格を有していたものである。

なお、本件疾病が佐藤工業での業務にも起因していたため、原告は、佐藤工業での労災保険法による傷病補償年金を受給しているが、これは、佐藤工業における業務がじん肺の素因を作り、被告における業務がじん肺結核の発症と増悪をもたらすという両業務が本件疾病の共働原因となっているため、佐藤工業の労災保険法による傷病補償年金の受給資格をも競合的に有していたので、併給を避けて佐藤工業のそれが用いられているにすぎない。

5  本件疾病は被告の業務にも起因している。

(一) 勤務状況、病状等について

(1) 原告は、被告入社以前は佐藤工業等において粉じん作業を伴う現場に従事していたが、被告入社時の健康診断では全く異常なしと診断され、ツベルクリン反応も陰性で、肺結核の兆候も全くなかった。

原告は、被告入社以後、歯車切削などの作業に従事していたが、右作業は粉じん作業ではなかったものの、残業の連続による長時間労働と夜勤の連続を伴う勤務であった。すなわち、昼夜交替制勤務であり、昼勤の定時は午前八時から午後四時まで、夜勤の定時は午後八時から翌朝四時までであるが、定時で終わることはほとんどなく、昼、夜勤とも残業が常態化し、昭和三七年一月分から昭和四七年一二月分までの残業の状況は別表(一)(略)記載のとおりであり、これに加え、昼夜のローテーションは三週間のうち一週間夜勤というのが一応の原則とされていたが、隔週に夜勤ということもしばしばあり、別表(一)にみるとおり、原告が肺結核で入院する昭和四〇年六月までの約三年半の間は、毎月少なくとも三〇時間、多いときには六〇から七〇時間を超える残業の連続であった。

(2) 原告は、昭和四一年三月退院し、同年五月に同一職場に復帰して同種作業に従事したが、その直後から残業を含めて従来どおりの交替制勤務に就いた。歯車切削の作業は、一時間の休憩を除き、立ち続けの作業で坐ることがないため、原告は、足のむくみや腰痛に悩まされていた。そして、夜勤では深夜一二時から一時間の休憩があるが仮眠時間はなく、朝四時が終業定時だが、ほとんど毎回残業があるので六時ごろの終業となり、入浴後帰宅すると六時半か七時となり、食事ののち就寝するが、夏の暑いときなどには正午ごろには目覚めてしまい、昼間の睡眠はよくとれてもせいぜい六時間程度であり、疲れがとれないまま、また夜八時からの勤務に就くという状態で、食欲不振と身体のだるさ、虚脱感がとれなかった。

(3) 右のような勤務が約五年間も続いた昭和四六年一月頃、原告は、健康診断で要注意とされ、同年六月に初めてじん肺と診断され、その時点では「じん肺管理区分二」と決定されているが、その後も依然として夜勤も残業も続き、昭和四七年一〇月には「じん肺管理区分四」とされ、翌月からじん肺結核で入院を余儀なくされた。そして、昭和五〇年一一月、軽快をみたので原告は職場に復帰し、従前と同種作業に従事したが、昭和五一年一二月、再び「じん肺管理区分四」の認定を受けるに至ったため、昭和五二年一月から休業した。

(二) 本件疾病はじん肺結核であり、一般的にじん肺の発症原因は粉じんの吸入にあるとされており、原告が粉じん作業に従事したのは被告入社前であるから、本件疾病はじん肺が素因ないし条件となっていたとは言い得るであろうが、原告は、(一)で述べたとおり、被告において残業を伴う夜勤・交替制勤務に長時間従事してきたものであり、夜勤・交替制勤務が人間の生体リズムを狂わせ、睡眠不足と食欲不振、過労の蓄積等から種々の疾患を誘発するものであるから、被告における前記のような過酷な労働が原告に肺結核をもたらし、じん肺の素因と合併し、本件疾病を促進、増悪させたものである。

更に、じん肺結核は、早期に発見し、過労の蓄積を避けるなど予後に適切な措置をとれば、増悪を防止することができる。被告においては、昭和四一年七月、遅くとも昭和四三年の段階で原告がじん肺に罹患していることを知っていたにもかかわらず、原告に告げずに、昭和四七年一一月にじん肺結核で入院するまで就労させ、退院後の昭和五〇年一一月から再び就労させている。このような被告の著しく不適切な対応、すなわち、従業員の健康管理を怠ったことが、本件疾病の増悪を招いたものである。

(三) なお、昭和四七年一一月の入院に際し、被告自ら同社の労災保険法による療養給付の請求手続をしたが、同請求書にも「災害の原因」として「入社後非粉じん職場で作業に従事していたが、じん肺所見が増悪し活動性の結核を併発した」と記載され、そのことを被告が証明している。この申請は、監督署の指導により取下げられたが、原告のじん肺結核の入院につき、被告が同社の労災保険法による給付請求をした事実は、当時、被告自身が原告のじん肺結核がその業務に起因するものとみていたことを如実に示している。

また、被告は、昭和五七年一月二八日付で原告に解雇予告をしているが、右予告書で解雇の理由を就業規則第七三条第四号、すなわち、「業務上負傷し、又は疾病にかかった者が、……傷病補償年金を受けることになった場合で、解雇を適当と認めたとき」に該当するとしておきながら、原告が本件補償金を請求すると、解雇後の三月三日になつて解雇理由は記載ミスであったとして訂正してきた。しかしながら、著名大企業たる被告の労務担当者が、傷病従業員の解雇という従業員にとっての死活問題である重要事案について、「1、2号および5号」を「4号」と書き間違えるなどという記載ミスをすることなどあり得ず、これは、本件補償金の支払を免れようとの意図のもとに解雇理由をことさら変えようとしたものにほかならない。

6  よって、原告は被告に対し、本件協約の定めに基づき、退職特別補償金一九〇〇万円及びこれに対する訴状送達の日の翌日である昭和五七年四月二〇日から完済まで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1の事実は認める。

2  同2の事実は認める。

なお、昭和五六年一月一日付労働協約に規定する本件補償金の金額は、同年一二月一七日に改正され、昭和五七年一月一日から施行されている労働協約では、本件補償金の金額は金一七〇〇万円である。

3  同3について、原告が本件協約第五一条の傷病補償年金を受給していたことは否認する(なお、原告は、第一〇回口頭弁論期日において、「本件労働協約第五一条の傷病補償年金の給付を受けていなかったことは認める。」と主張し、後になってこれを覆す主張をするが、右は自白の撤回にあたり、異議がある。)。

右の傷病補償年金とは、被告の業務上の傷病に対し、一定の条件のもとに、労災保険法に定める傷病補償年金(厚生年金保険法に定める障害年金との調整が行われる場合は、調整前の額)及び傷病特別年金に加算して、被告から支給される金員を指すのであって、原告が被告に在職中に支給を受けていた傷病補償年金、すなわち、原告の疾病が前職の佐藤工業の業務に起因するとして、同社の労災保険の適用を受けた労災保険法に定める傷病補償年金とは異質のものである。すなわち、

(一) 昭和四七年一一月から昭和五〇年一一月まで

(1) 立替払分

被告は、原告が昭和四七年一一月一日からじん肺結核で休業しはじめ、原告の賃金がストップして直ちにその生活に影響を及ぼすことを考慮し、原告の労災保険法による休業補償額が決定するまでの便法として、取敢えず、昭和四七年一一月分は、被告における当時の平均賃金(給付基礎日額)二九九四円から税金相当分を控除した二六八一円の三〇日分八万〇四三〇円を仮払いし、そこから社会保険料等の控除金合計四万九七三一円を控除し、また、年末調整等の調整(三万五五二三円の支払と二二二円の繰越し)をして六万六〇〇〇円を仮払いし、同年一二月分及び翌年一月分も、右の平均賃金の六〇%にあたる一七九六円の三一日分五万五六七六円をそれぞれ立替払いした。その後、京都上労働基準監督署における原告の場合の法定給付基礎日額が三五九一・七二円でその六〇%にあたる二一五五円が休業補償のべースであることが判明したので、昭和四七年一一月分からの労災保険給付立替金の清算として、昭和四八年一月に三万一九四一円を支給し、同年二、三月分は、それぞれ六万〇三四〇円、六万六八〇五円を支給した。そして、同年四月になって、原告の労災保険法による休業補償の給付基礎日額が、昭和三四年五月時点における武生労働基準監督署算定の給付基礎日額九四八・九八円に昭和四七年二月時点におけるスライド率四四四%を乗じた四二一三・五円と決定されたため、その六〇%にあたる二五二八・一円(したがって、二八日分七万〇七八七円、三〇日分七万五八四三円、三一日分七万八三七二円)を、被告も昭和四八年四月分から支給し(別表(二)のA参照)、後に国庫から原告に数ケ月分まとめて休業補償給付金が支給された段階で、原告から右の立替払分が返還されていた。

(2) 見舞金分

原告は、前記のとおり、社会保険料等の控除金が約五万円にも達しており、当時の労災保険からの休業補償が六万五〇〇〇円前後であったため、被告は、原告の家族を含めた生活上のことを考慮して、見舞金として、昭和四七年一一月における原告の平均賃金日額の二〇%(したがって、二八日分一万六七六六円、三〇日分一万七九六四円、三一日分一万八五六二円。なお、休業補償であるとすれば、四〇%である。)を毎月支給することとし、昭和四七年一一月から昭和四八年一月までの三ケ月分の合計金五万五〇八八円を、昭和四七年一一月に仮払いした八万〇四三〇円のうちの三万一九二八円と昭和四八年一月に清算として二万三一六〇円を支払うことにより支給し、その後、昭和五〇年一一月まで、同様に支給した(別表(二)のB参照)。

(二) 昭和五二年一月から昭和五六年一二月まで

もとよりこの間においても、被告には、労災保険からの給付金の立替支払義務も見舞金支給義務も一切ないのであるが、原告の以前の休業時と同様に原告の生活を慮り、同じく次のとおりの立替払と見舞金を支給することとした。

(a) 立替払分

七八八八・三円(昭和五二年一月時点における京都上労働基準監督署算定の原告の場合のべース)の六〇%にあたる四七三三円(したがつて、二〇日分九万四六六〇円、二八日分一三万二五二四円、三〇日分一四万一九九〇円、三一日分一四万六七二三円)

(b) 見舞金分

五二九五円(昭和五二年一月時点の被告における平均賃金日額)の二〇%にあたる一〇五九円(したがって、二〇日分二万一一八〇円、二八日分二万九六五二円、三〇日分三万一七七〇円、三一日分三万二八二九円)

そこで、昭和五二年一月から同年九月までは、右の(a)と(b)の合計額が原告に支給され、原告が労災保険金を受領した時点で(a)の部分が返還されていた。

ところで、昭和五二年五月、原告に対するこれまでの労災保険法による休業補償給付が傷病補償年金に移行したのであるが、被告は、同年九月頃、立替金の返還にきた原告からはじめてその事実を知り、もはや会社見舞金は不要と判断し、同年一〇月以降見舞金の支給を打切ったが、傷病補償年金が数ケ月分まとめて支給されるので、立替金については、右に述べた(a)の額を固定したままで、昭和五六年一二月まで続け、原告から数ケ月分まとめて返還を受けていた。

(三) 以上のとおり、被告は原告に対し、原告が休業していた全期間(ただし、昭和五七年一、二月を除く。)、佐藤工業を適用事業場とする労災保険給付金(休業補償)の立替払をしていたが、これは、被告を適用事業場とする労災保険給付金(休業補償)の立替払いでは全くなく、このことは、右休業補償金の基礎となる平均賃金日額が、被告における原告の平均賃金日額ではなく、労働基準監督署が算定した給付基礎日額によって算定されていることからも明らかである。また、被告は原告に対し、一時期、会社見舞金を支給していたが、この見舞金は、被告における原告の平均賃金日額の二〇%を基礎としているものであって、原告が主張するような労災保険法による休業補償の上積みでないことは、その給付基礎日額が全く異なることからも明らかである。要するに、原告の主張は、算定基礎の全く異なる休業補償や会社見舞金ならびに性格の異なる特別支給金(労災補償そのものではない)を一括して、被告における休業補償と勝手に断定し、単にパーセントのごろ合わせをしているにすぎない。

4  同4の主張は争う。

5  同5の主張は争う。

(一)(1) 原告は、被告に入社する以前、佐藤工業等で坑夫としてトンネル工事等の現場粉じん作業に従事していたが、被告入社後は、歯車等の切削作業に従事しており、右作業は粉じん作業ではない。

(2) 原告の就労当時、昼夜交替制勤務をとる企業は、自動車産業を含め製造業では極く一般的であり、しかも被告のもとでは、夜勤対策として、照度、通風、騒音等環境の整備のほか、仮眠所の設置、食事内容の充実、更には、きめ細かい健康管理面からの指導に万全を尽してきたのである。

昭和三七年から昭和四〇年六月頃までの被告における作業に関し一般的には次のことがいえる。すなわち、当時、昼夜交替制勤務の昼勤は、午前八時から午後四時まで、休憩時間は正午から午後一時までの実働七時間、夜勤は午後八時から午前六時まで、休憩時間は午前零時から午前三時までの実働七時間であった。また、当時の工員の一日当りの平均残業時間は、昭和三七年前半が二・三ないし二・四時間とやや高めであったが、昭和三七年後半からは一時間を割る状態となり、その後昭和三九年前半の一部を除き概ね一時間前後、多いときでも二時間未満であった。更に、当時、原告の所属していた第一工作部第一機械課歯車係での工員数は、約二〇〇名前後であり、そのローテーションは隔週に夜勤に入る二人組形態が約一〇名、三週間以上に一週夜勤に入る三人組以上形態が約五〇名であり、当時は三人組以上形態が通常であった。これらの労働時間、残業、交替制勤務の状況等は、被告が恣意的に決定するものではなく、その時々の生産量と人員構成に応じて、労使協議のうえ決定されていた。交替制勤務に従事したから、病気にかかり易いなどということはあり得ないのである。

(3) 被告のもとで原告にツベルクリン反応検査を最初に実施したのは、昭和三七年一〇月であり、このときは陽性と判定されている。なお、昭和三六年一二月時点の健康診断では、ツベルクリン反応検査は実施していない。

(4) 原告は、昭和四〇年六月、私傷病の肺結核で入院し、昭和四一年三月退院したが、当初の原告の肺結核の病状は、非開放性、限局性の比較的軽症であり、被告における結核に対する徹底した早期発見、早期治療という健康管理方針に基づき、被告の付属病院に入院させたうえ加療を施し、その結果、入院後約一〇ケ月で症状の軽快安定をみたので、原告の復職について慎重審議したうえで、退院及び就労の措置をとった。退院後は、要結核管理者として約半年おきに精密検査を受けさせ、その結果、結核の管理区分もB1(要注意)からC1、C2(要観察)、D2(準管理)と好転し、昭和四五年五月二八日の精密検査ではD3(治癒)と判定された。この検査結果は、その都度、産業医から原告に説明されており、残業等の可否についても指導を行なっている。

昭和四一年七月にじん肺ではないかと疑わしいとの所見があり、同年一二月には、産業医は、じん肺所見があるので、十分注意する、しかし翌年から要観察(C1)という診断を行なったが、じん肺所見があるからといって、直ちに作業を減ずるとかの措置が必要なわけではなく、当時、産業医としては、原告が被告入社前に粉じん作業に従事していたことを隠し、かつ、被告における原告の作業が非粉じん作業であったことから、じん肺罹患の可能性がないため、経過を見守っていたにすぎない。昭和四二年六月、産業医は、原告から坑内作業三年位の経験ありと初めて知らされたが、原告の病状の経過が不変であるため、要観察(C2)の状態が続けられ、昭和四三年三月、全般にじん肺所見があったが、軽度のもの(PR1~2?)とみられ、その後の経過も不変であったので、要観察の状態が続いた。昭和四四年一二月には、じん肺所見以外に著しい変化がないとの診断がなされ、昭和四五年五月には、じん肺所見はあるが結核は治癒しているとの判定がされた。しかし、同年一一月になって、原告から粉じん作業に一〇年従事したとの申立てが産業医にあったので、昭和四六年一月からじん肺検診を行うこととなり、同年六月二四日、じん肺健診決定通知があり、じん肺管理区分は療養を必要としない「二」(一年以内に一回じん肺健診を行うだけ)とされ、肺結核も病勢の進行のおそれのない程度であった。昭和四七年六月一七日のじん肺健診決定通知も同様であり、この状態は、同年一〇月一六日の通知があり、同年一一月一日大津市民病院に入院するまで続いた。

昭和五〇年一一月一二日、「じん肺管理区分三」の決定通知があり、それによって今後は化学療法を一般健保で実施し、出勤可能と診断されたため、同年一二月一五日から出勤することになった。

(二) 原告は、入社後肺結核になるまでの間、残業が非常に多い旨主張するが、当時は週休一日の時代であり、月平均二六日の稼働で、更に所定労働時間が七時間であるから、原告の残業時間は一日平均二時間前後であり、昼勤の場合はほぼ午後六時頃には勤務を終了していた。また、原告が昭和四一年五月に職場復帰してから一ケ月間は残業はなく、その後の半年間程は残業が一日一時間にも満たない状態である。こうした被告の就労実態は、当時としては極く一般的なものである。

また、被告京都製作所における結核罹患病者は、事務部門も含め各所に分布しており、特定の職場、作業環境、勤務形態から集中発生しているという事実はなく、夜勤交替制勤務者からの罹患率も他の勤務状態の者と全く差がない。

(三) じん肺とは「粉じんを吸入することによって肺に生じた線維増殖性変化を主体とする疾病」で、じん肺による病変は不可逆的であり、現在の医学では治療は不可能である。また、肺内に粉じんが存在し続ける限り、生体のこれに対する反応は継続する。粉じんによる肺の線維増殖性変化は、粉じんの量に対応する進行であり、無限の進行ではないが、気管支変化、肺気腫は進行し続ける。そのため、粉じん職場を離れたのち、長年月を経て初めてじん肺の所見が発現することも少なくない。また、高齢になるほど加齢による肺機能の低下に加え、粉じんの影響を長期間受けるため、重篤化する。他方、じん肺の合併症とは「じん肺と合併した肺結核その他のじん肺の進展経過に応じてじん肺と密接な関係があると認められる疾病」で、「じん肺の病変を素地として、それに外因が加わること等により、高頻度に発症する疾病等のじん肺と密接な関連をもつ疾病であり、増悪期に適切な治療を加えれば、病状を改善し得るものであり、一般に可逆性のものである」(昭和五三年四月二八日基発第二五〇号)とされている。

以上のとおり、原告の肺結核罹患、ならびにじん肺結核の発症は、被告入社前の職歴や原告本人の資質によるものであって、被告における原告の業務とは相当因果関係が存在しないのであって、業務起因性は存在しないのである。

第三証拠

証拠関係は、記録中の書証目録及び証人等目録記載のとおりであるから、これを引用する。

理由

一  原告が昭和三六年一二月に被告(ただし、当時はその前身である新三菱重工業株式会社)に雇用され、昭和五七年二月二八日付をもって解雇されるまで同社京都製作所に勤務していたものであり、かつ、組合に所属していたこと、本件協約第五二条第一項第一号に「会社は、傷病補償年金を受ける者が退職し、又は解雇されたときには、当該組合員に退職特別補償金を支払う。」旨規定されていること、以上の事実は当事者間に争いがない。

二  原告は、まず、本件補償金請求の前提である傷病補償年金を受給していた旨主張する。

1  被告は、原告が本件協約第五二条第一項第一号にいう傷病補償年金を受給していた旨の原告の主張は自白の撤回にあたる旨主張するが、本件補償金を請求しうる根拠は、原告が本件協約第五一条に定める傷病補償年金を受ける者(現に受給を受けていた者か、あるいは、その受給資格を有する者をも含むかの点については暫くおく。)にあたることであるから、この点については、原告が主張立証すべきものであり、したがって、原告が、右にいう傷病補償年金を受けていないがその受給資格がある旨の主張に加えて、右にいう傷病補償年金を受給していた旨の主張をするに至ったとしても、これは、請求原因の追加的変更にすぎず、自白の撤回になるものではない。よって、被告の主張は理由がない。

2  そこで、原告の主張の当否について判断するに、(証拠略)によると、本件協約第五一条には、一定の条件のもとに、休業補償給付にかえ、傷病補償年金として、労災保険法に定める傷病補償年金及び傷病特別年金を含み、一年につき、給付基礎日額から所得税相当額を控除した額に三六五を乗じた額を支給する旨定められていることが認められるところ、原告の傷病等級が第三級であることは弁論の全趣旨により明らかであるから、労災保険法に定める傷病補償年金は給付基礎日額の二四五日分、傷病特別年金は同じく四九日分となり、所得税相当額を別に考えると、本件協約に基づく傷病補償年金はその差額七一日分となるが、(人証略)の証言によれば、原告は右差額分の支払を求めたことがないというのであり、また、原告の主張が、当初、佐藤工業を適用事業場とする労災保険法による傷病補償年金を受給し、本件協約に基づく傷病補償年金を受給していないことを前提にしていたことは記録上明らかであり、更に(証拠略)を総合すると、原告は、じん肺結核のため、昭和四七年一一月一日から昭和五〇年一二月一四日まで休業し、復職後、昭和五一年一二月二七日付「じん肺管理区分四」の決定通知を受けたため、昭和五二年一月一二日から休業し、同年五月から労災保険法による傷病補償年金を受給していることが認められ、また、(証拠略)と弁論の全趣旨を総合すると、被告は原告に対し、前記休業中の昭和四七年一一月分から昭和五〇年一一月分まで及び昭和五二年一月分から昭和五六年一二月分まで、別表(二)のA又はA'とBの合計額、あるいは、A'の金員を支給していたことが認められるが、右金員の内訳、性質については、(証拠略)、原告本人尋問の結果と弁論の全趣旨を総合すると、

(一)  被告は、原告の労災保険法による休業補償額が決定するまでの措置として、昭和四七年一一月分は、被告における当時の平均賃金日額二九九四円から税金相当分を控除した二六八一円の三〇日分八万〇四三〇円を仮払いし、そこから社会保険料等控除金合計四万九七三一円を控除し、また、年末調整等の調整をして六万六〇〇〇円を仮払いし、同年一二月分及び翌年一月分も、右の平均賃金二九九四円の六〇%にあたる一七九六円(円未満切捨)の三一日分五万五六七六円をそれぞれ立替払した。そして、京都上労働基準監督署における原告の場合の法定給付基礎日額が三五九一・七二円でその六〇%にあたる二一五五円(円未満切捨)が休業補償のベースであることが判明したので、被告は、昭和四七年一一月分からの労災保険給付立替金の清算として、昭和四八年一月に三万一九四一円(一一月分二七日、一二、一月分各三一日で日額二一五五円の合計額一九万一七九五円と、一一月分として仮払いした八万〇四三〇円のうち二九九四円の六〇%にあたる一七九六・四円の二七日分四万八五〇二円(円未満切捨)を立替払分とし、これと一二月分及び一月分として支給した分との合計額一五万九八五四円との差額)を支給し、同年二月分として六万〇三四〇円、同年三月分として六万六八〇五円を支給した。そして、同年四月になって、原告の労災保険法による休業補償の給付基礎日額が、昭和三四年五月時点における武生労働基準監督署算定の給付基礎日額九四八・九八円に昭和四七年一一月時点におけるスライド率四四四%を乗じた四二一三・五円(一〇銭未満切上)と決定されたため、被告は、その六〇%にあたる二五二八・一円(したがって、二八日分七万〇七八七円(円未満切上)、三〇日分七万五八四三円、三一日分七万八三七二円(円未満切上))を昭和四八年四月分から昭和五〇年一一月分まで支給し(別表(二)のAのとおり)、後に国庫から原告に数ケ月分まとめて休業補償給付金が支給された段階で、原告から右の立替払分の金員の返還を受けた。

他方、被告は、右の立替金の支給とは別に、昭和四七年一一月における原告の平均賃金日額二九九四円の二〇%にあたる五九八・八円(したがって、二八日分一万六七六六円(円未満切捨)、三〇日分一万七九六四円、三一日分一万八五六二円(円未満切捨))を毎月支給することとし、昭和四七年一一月に仮払いした八万〇四三〇円のうち立替金分に充当した残りの三万一九二八円と昭和四八年一月に二万三一六〇円を支払うことにより昭和四七年一一月分から昭和四八年一月分までの合計五万五〇八八円を支給し、その後、昭和五〇年一一月分まで同様に支給した(別表(二)のBのとおり)。

(二)  昭和五二年一月からの休業に際しても、被告は、休業補償の立替払をすることとし、昭和五二年一月時点における京都上労働基準監督署算定の原告の場合のベース七八八八・三円の六〇%にあたる四七三三円(円未満切上、したがって、二〇日分九万四六六〇円、二八日分一三万二五二四円、二九日分一三万七二五七円、三〇日分一四万一九九〇円、三一日分一四万六七二三円)を昭和五二年一月分から昭和五六年一二月分まで支給し(ただし、昭和五二年一一月分以降の一ケ月三〇日のときは日額算定の際に円未満切捨てたため一四万一九六〇円。昭和五四年二月分は一三万二二四四円。別表(二)のA'のとおり)、原告が労災保険金を受領した時点で、原告から右の立替払分の金員の返還を受けた。

他方、これとは別に、被告は、前回同様、昭和五二年一月時点における被告における平均賃金日額五二九五円の二〇%にあたる一〇五九円(したがって、二〇日分二万一一八〇円、二八日分二万九六五二円、三〇日分三万一七七〇円、三一日分三万二八二九円)を昭和五二年一月分から支給していたが(別表(二)のBのとおり)、同年九月頃、同年五月に原告に対する労災保険法による休業補償給付が傷病補償年金に移行していたことが判明したため、右の支給を同年九月分までで打切った。

以上の事実を認めることができる。

ところで、(証拠略)によると、本件協約第四七条には、休業補償給付として、労災保険法に定める休業補償給付及び休業特別支給金を含み、休業期間一日につき、給付基礎日額(労災保険法に定めるもの)から所得税相当額を控除した額の給付を行う旨定められていることが認められるところ、前記認定事実によれば、被告が原告に対し行なっていた労災保険給付金の立替払いが、被告を適用事業場とする労災保険給付金の立替払いでないことは、その給付基礎日額が全く異なることからも明らかであり、また、右の立替分とは別に支給していた金員は、その支給が一時期の額に固定されたままでスライドがないこと及び被告により一方的に打切られていることからも、本件協約上の休業補償でないことは明らかである。

よって、原告の主張は理由がない。

三  次に、原告は、本件協定に基づく傷病補償年金を受給していなくとも、本件疾病が被告における業務にも起因していることを前提として、右の傷病補償年金の受給資格があれば、本件補償金の請求権が発生する旨主張するが、右の主張の当否については留保し、本件疾病が被告の業務にも起因するものと認められるかについて検討することとする(なお、原告は、本件協約にいう「業務」とは被告の業務に限定されないと主張するが、右主張は独自の見解にすぎず、採用することはできない。)。

1  (証拠略)、原告本人尋問の結果(ただし、後記信用しない部分を除く。)と弁論の全趣旨を総合すると、

(一)  原告は、佐藤工業に勤務中の昭和三〇年頃、左乾性肋膜炎に罹患し、このため約半年間休業したが、初診の際に医師の診察を受けただけで、投薬以外の治療を受けていなかった。

(二)  被告入社時、原告は、ツベルクリン反応検査を受けてなく、昭和三七年一〇月一五日実施のツベルクリン反応検査で陽性と判定された。

(三)  原告は、昭和三八年八月頃、急性肺炎に罹患し、約一ケ月半入院した。

(四)  原告は、昭和四〇年六月一日から肺結核で入院したが、非開放性、限局性の比較的軽症であり、症状の軽快安定をみたので、翌四一年三月九日には復職判定がなされ、同月一三日に退院し、同年四月一日職場復帰した。以後、原告は、春秋の定期健診のほか要結核管理者としてほぼ半年おきに精密検査を受けているが、結核の管理区分はB1(要注意)からC1、C2(要観察)、D2(準管理)と好転し、昭和四五年五月二八日の精密検査の結果ではD3(治癒)と判定された。

(五)  この間の昭和四一年七月にじん肺ではないかとの所見があり、同年一二月には、じん肺所見があるので十分注意するという診断がなされた。昭和四二年六月、原告から坑内作業三年位の経験ありとの申し出があり、昭和四三年三月、全般にじん肺所見があったが、軽度のもの(PR1~2?)とみられ、その後の経過は不変であり、昭和四四年一二月には、じん肺所見以外著変なしとされ、昭和四八年五月には、じん肺所見があるものの肺結核は治癒との判定がなされたが、同年一一月になって、原告から粉じん作業に一〇年従事したとの申し出があったため、じん肺検診を行うこととされ、昭和四六年六月二四日のじん肺の健康管理区分の決定通知によれば、管理区分は療養を必要としない「二」とされ、肺結核も病勢の進行のおそれのないものであるとされ、昭和四七年一〇月一六日の右決定通知では、管理区分「四」と判定され、肺結核も活動性のあるものとされたため、同年一一月一日から大津市民病院に入院し、翌四八年四月一一日退院し、療養を続けていたが、昭和五〇年一一月一二日の右通知によれば管理区分も「三」とされ、今後は化学療法を一般健保で実施し、出勤可能と診断されたため、同年一二月一五日から出勤したが、昭和五一年一二月一七日の右通知により管理区分「四」とされたため、昭和五二年一月から休業した。

以上のとおり認めることができ、右認定に反する原告本人尋問の結果は前掲証拠に照らし信用することができず、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

2  (証拠略)、原告本人尋問の結果と弁論の全趣旨を総合すると、

(一)  原告は、被告に入社する以前、佐藤工業等で坑夫としてトンネル工事等の現場粉じん作業に長期間従事していたが、このことを入社時の履歴書では隠しており、被告入社後は粉じん作業には従事していなかつた。

(二)  原告は、被告入社後、工作部第一機械課歯車係に所属し、歯車等の切削作業に従事していたが、昼夜交替制勤務であり、昼勤は、午前八時から午後四時まで、休憩時間は正午から午後一時までの実働七時間、夜勤は午後八時から午前六時まで、休憩時間は午前零時から午前三時までの実働七時間というのが労働協約によって定められていたが、原告の所属する部署では、右夜勤の定めどおりには実施されてない時期もあり、休憩時間を午前零時から午前一時として午前四時を終了時とする取扱いがなされていたときもある。夜勤は隔週の場合と三週間に一週の場合があった(なお、その割合は確定できない。)。そして、原告が肺結核で入院する昭和四〇年六月までの残業時間数は別表(一)記載のとおりであり(なお、このうち夜勤の場合の残業がどれだけであるかは確定できない。)、当時は週休一日制であるから、一ケ月二六日所定労働日とした場合の一日当たりの残業時間数は約一・八時間となる。

(三)  原告は、昭和四一年四月一日から同じ職場に復帰して面取作業等に従事した。右作業は大体座位で行なっていた。そして、同年六月からは、産業医の許可を受けて残業もするようになり、また、産業医の許可のもとに夜勤もあった(もっとも、その時期等は不明である。)。じん肺結核で入院する昭和四七年一一月までの残業時間数は別表(一)記載のとおりであり、当時は週休二日制となっていたので、一ケ月二二日所定労働日とした場合、一日当たりの残業時間数は約一・六時間となる。

昭和五〇年一二月一五日から、同じ職場に復帰し、再度休業する昭和五二年一月一二日まで軽作業に従事したが、夜勤はなく、残業もあったが、その程度は不明である。

以上のとおり認めることができる。

3  証人片木健一の証言と弁論の全趣旨によると、じん肺とは「粉じんを吸入することによって肺に生じた線維増殖性変化を主体とする疾病」であり、じん肺による病変は不可逆性のものであり、粉じん職場を離れて長年月を経て初めてじん肺の所見があらわれることも少なくないこと、じん肺の合併症とは「じん肺の病変を素地としてこれに外因が加わること等により高頻度に発症する疾病等のじん肺と密接な関連をもつ疾病であり、増悪期に適切な治療を加えれば症状を改善し得るものであり、一般に可逆性のもの」とされていることが認められる。

4  以上の事実を総合して判断するに、結核症は結核菌を病源菌とする伝染病であり、また、被告における業務は非粉じん作業であるから、原告の肺結核の罹患及び本件疾病の原因となったのが被告の業務でないことは明らかであり、原告の主張も、残業を伴う昼夜交替制勤務が過酷であったから、本件疾病の発現を促進、増悪させたものであり、その点で被告の業務に起因するものであるというのであるが、原告の場合は、被告入社前にじん肺の素地があったのであり、じん肺は不可逆性のものであり、進行し続けるものであるから、このような場合には、当該業務が疾病の自然的増悪を超えて著しく急激に増悪せしめる原因となったものとするに足るだけの強度を有していたと認められることが必要であると解する。

以上の見地にたって本件をみるに、なるほど、昼夜交替制勤務が、人間の生体リズムを狂わせ、睡眠不足、食欲不振、過労の蓄積等から種々の疾患を誘発し易いということ(成立に争いがない<証拠略>、証人片木健一の証言)は一応はいい得るにしても、夜勤が必ず病気を惹起するものでないことも明らかなところであり、(人証略)の証言と弁論の全趣旨によれば、原告の就労当時、昼夜交替制勤務をとる企業は、被告のような自動車産業を含めて製造業では一般的であり、また、原告の残業時間数にしても一日平均二時間未満であって、右の残業状況が原告の場合のみ特に多いということもないので、同職場の他の従業員もこれと同様であると考えられるところ、右のような状況のもとでその疾病者が他の職場に比して多いということもないこと、更に、結核症に罹患した従業員が原告の職場に特に多いということもないことが認められ、また、原告の労働環境が劣悪であったと認めるに足る証拠もない。右認定事実と前記認定事実を総合して判断すると、被告における原告の業務が、じん肺の自然的増悪を超えて急激に増悪せしめるほど強度のものであったと認めるには多大な疑問が残るというほかはない。なお、証人片木健一の証言は、原告の業務の実体に即してないことを前提とするものと認められるので、採用することができない。

また、(証拠略)によれば、前記のとおり、昭和四七年一〇月一六日、原告に対し、じん肺の管理区分「四」の決定通知があったため、休業することとなったが、その際、被告としては、被告の業務に起因しないため、その療養補償給付請求について労働基準監督署に指導を仰いだところ、取敢えず、被告から提出してくれとのことだったので、同月三〇日付をもって、被告を適用事業場とする労災保険の給付請求書を提出したが、のちに、監督署から、原告の疾病は被告の業務には起因しないので、右請求書を取下げるようにとの指示があったため、取下げたことが認められ、したがって、労災保険請求手続を被告がとったことは、本件疾病を被告の業務に起因するものと被告が認めていたことを示すものでないというべきである。

更に、(証拠略)、原告本人尋問の結果(ただし、後記信用しない部分を除く。)を総合すると、被告は原告に対し、昭和五七年一月二八日、同日付の解雇予告書を手渡しているが、右書面には、「佐藤工業(株)における作業が原因で休業中であるが、就業規則第七三条第四号により二月二八日付をもって解雇する」旨記載されていること、就業規則第七三条第四号には「業務上負傷し、又は疾病にかかった者が、……傷病補償年金を受けることになった場合で、解雇を適当と認めたとき」と規定されていること、被告は原告に対し、同年三月三日、同日付の「解雇予告の就業規則適用条項第七三条第四号は記載ミスであり、同条一、二号および五号に訂正する。」旨の文書を送付したこと、右の間、被告は原告に対し、電話又は直接、適用条項が誤っていた旨説明し、訂正書を手渡そうとしたが、原告が受取りを拒んだため、やむなく、三月三日になって訂正書を送付したことが認められ、右認定に反する原告本人尋問の結果は前掲証拠に照らして信用することができず、他に右認定事実を左右するに足る証拠はない。右認定事実によれば、当初、原告に対し就業規則第七三条第四号を解雇理由としたことは記載ミスと認めるほかなく、原告が主張するように被告に本件補償金を免れようとの意図があったものとは認められない。

以上のほか、他に本件疾病の発現が被告の業務に起因すると認めるに足る証拠もないので、原告の主張は、その当否について判断するまでもなく、その前提を欠き理由がない。

四  よって、原告の本訴請求は理由がないのでこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条に従い、主文のとおり判決する。

(裁判官 下山保男)

別表 (二)

<省略>

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